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前橋地方裁判所 平成3年(ワ)321号 判決

原告

大滝景子

ほか二名

被告

渡辺一一

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告大滝景子に対し、金一五七〇万円及びこれに対する平成元年一〇月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を、原告大滝昇平及び原告大滝ひとみに対し、各金七八五万円及びこれに対する平成元年一〇月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を、それぞれ支払え。

第二事案の概要

本件は、交通事故の被害者の遺族である原告らが、加害者である被告に対し、不法行為による損害賠償を請求したところ、被告から示談の成立を抗弁として主張され、主として右示談の効力等をめぐつて争われた事案である。

一  争いのない事実

1  原告大滝景子は、亡大滝勝之(以下「亡勝之」という。)の配偶者であり、原告大滝昇平及び原告大滝ひとみは、亡勝之の子である。

2  被告は、平成元年一〇月二八日午後二時二〇分ころ、群馬県新田郡新田町字大根所在の前橋古河線において、軽トラツクを運転中、居眠りをし、前方の安全を注視する義務を怠つたことにより、同所をジヨギング中の亡勝之に同車を追突させ、よつて、同人を死亡させた(以下「本件事故」という。)

3  原告らは弁護士である上野猛(以下「原告らの弁護士」という。)を、被告は弁護士である渡辺明男(以下「被告の弁護士」という。)を、それぞれ代理人として、本件事故の示談交渉を行い、その関与の下に次項の示談が成立した。

4  原告らと被告とは、平成二年四月一二日、本件事故に関し、概要次のとおりの示談契約を締結した(以下「本件示談」という。)。

(一) 被告は、原告らに対し、自動車損害賠償保障法(以下「自賠法」という。)に基づく政府に対する損害填補の請求に係る金員(以下「政府補償」という。)及び既払金二五〇万円の外に示談金合計四一五〇万円を次のとおり分割して払う。

(1) 平成二年四月一二日に金三三五〇万円を支払う。

(2) 平成三年から平成一二年まで毎年四月末日限り各八〇万円宛(合計金八〇〇万円)を送金して支払う。

(3) (2)の金額の支払を二回怠つたときは、期限の利益を失い、残金全額を直ちに支払う。支払期限の到来した残金については、年一割の損害金を付する。

(二) 原告らと被告との間には、前項記載以外には一切債権債務のないことを確認する。

5  被告は、原告らに対し、平成二年四月一二日に三三五〇万円、平成三年四月末日及び平成四年四月末日に各八〇万円を支払つた。

二  原告らの主張

1  損害の発生及びその額

本件事故により亡勝之が被つた損害は、次のとおりである。

(一) 逸失利益・五二七一万五〇〇〇円

本件事故当時の亡勝之の年収四〇〇万円、生活費控除三五パーセント、新ホフマン係数二〇・二七五で計算。

(二) 慰謝料・二二〇〇万円

2  本件示談の錯誤による無効

(一) 原告らは、本件示談をするに際し、本件示談の内容のままでは、法令上原告らが本件事故につき政府補償として二五〇〇万円の損害填補を受けることができなくなるにもかかわらず、当時右二五〇〇万円の損害填補を受けられるものと誤信していた。

(二) 原告らは、被告に対し、政府補償として二五〇〇万円の損害填補を受けると損害金の支払合計額が六九〇〇万円となるので、本件示談に応じる旨を述べていた。

(三) 仮に、原告らが右錯誤に陥るにつき重大な過失があつたとしても、被告ないし被告の弁護士は、本件示談の際、原告らが右錯誤に陥つていることを知つていた。

3  本件示談の詐欺による取消

(一)(1) 被告の弁護士は、原告らをして本件示談に応じさせようとして、本件示談の際、実際には政府補償として二五〇〇万円の損害填補を受けられないのに、原告らに対し、右二五〇〇万円の損害填補が受けられ、損害金の支払合計額が六九〇〇万円になるかのように告げて、原告らを欺いた。

(2) 根立廣幸は、原告らをして本件示談に応じさせようとして、本件示談の際、実際には政府補償として二五〇〇万円の損害填補を受けられないのに、原告らに対し、右二五〇〇万円の損害填補を受けられることを保険関係の専門業者として確約し、また、右金員が支払われたら融資して欲しいなどと述べて、原告らを欺いた。

(二) その結果、原告らは、政府補償として二五〇〇万円の損害填補が受けられるものと誤信し、本件示談に応じる旨の意思表示をした。

なお、被告ないし被告の弁護士は、右根立廣幸の発信が、被告の弁護士の発言と相俟つて、原告をして本件示談に応じさせるに至つたことを知つていた。

(三) 原告らは、被告に対し、平成四年六月二九日の本件口頭弁論期日において、本件示談に応じる旨の意思表示を取り消す旨の意思表示をした。

三  被告の主張

1  原告らが、被告から損害賠償金として四四〇〇万円の支払を受けられる場合、自賠法の政府補償が受けられないことは法律上・実務上明白である。

しかるところ、原告らは、本件示談書作成以前に交通事故損害保険の専門家である日動火災海上保険株式会社の社員大橋某に相談して政府補償支払請求書を作成してもらつて請求を行つた。また、原告らは、原告らの弁護士を代理人として、本件示談の交渉を行い。かつ、示談内容を決定し、示談書を作成したものであり、その間に、政府補償の支払請求についても相談し、同代理人の了解を得てこれを請求していた。

このように、原告らと同視すべき立場にある右両名が政府補償による損害填補を受けられると考えたとすれば、そこには重大な過失があることになり、原告らは、錯誤による無効を主張することができない。

2  被告は、原告らに対し、平成五年四月二七日ころ、金八〇万円を支払つた。

四  争点

1  原告らの損害の有無及びその額

2  本件示談につき錯誤無効の主張の可否

(一) 要素の錯誤の存否

(二) 原告らの重過失の存否

(三) 被告ないし被告の弁護士の悪意の存否

3  本件示談につき詐欺による取消の可否

4  平成五年分金八〇万円の支払の有無

第三当裁判所の判断

一  争点1(原告らの損害の有無及びその額)について

1  逸失利益について

亡勝之は、本件事故当時、国家公務員として特許庁に勤務する健康な三一歳の成年男子であり、昭和六三年には四〇〇万〇一五五円の年間給与所得を得ていた(甲一四、原告大滝景子、弁論の全趣旨)。そうすると、亡勝之は、同年齢者の男子平均余命である四五・八四年間生存し(昭和六三年簡易生命表)、そのうち三六年間は就労可能であつて、その間、少なくとも、昭和六三年度の年間給与所得である四〇〇万〇一五五円を下らない収入を得られるものと推認される。また、本件事故当時、原告大滝昇平は二歳、原告大滝ひとみは胎児であり、原告大滝景子は、亡勝之同様に国家公務員として稼働していた(甲一四、原告大滝景子、弁論の全趣旨)。このような亡勝之の家族の構成に照らすと、その生活費の割合は、大きく見積もつても三五パーセントを超えないものと見るのが相当である。そこで、右就労可能年数に対応する新ホフマン係数(定額昇給の場合)二〇・二七五を乗じてホフマン式計算法(年別複式)により亡勝之の逸失利益の現在価額を計算すると、次の計算式のとおり、原告らの主張する五二七一万五〇〇〇円を超える五二七一万七〇四三円(小数点以下四捨五入)となる。

(四〇〇万〇一五五円×〔一-〇・三五〕)×二〇・二七五=五二七一万七〇四三円

なお、被告は、中間利息の控除方式として新ホフマン係数によるホフマン式計算法ではなく、ライプニツツ式計算法を採用すべきである旨主張するが、逸失利益の算定方法については、その性質上、唯一無二の絶対的なものがあるものではなく、一定の合理性のある方法である限り、その中のいずれの方法を採用するかは、諸般の事情を考慮して決定すべきものであるところ、本件事案に照らすと、新ホフマン係数によるホフマン式計算法を採用するのが相当である。

2  慰謝料について

前記亡勝之の年齢、健康状態、本件事故の態様及び結果、家庭環境、ことに幼少の未成年子二人を残して突然に人生を終えねばならなかつた無念等の諸般の事情を総合して考慮すれば、亡勝之の被つた精神的、肉体的苦痛に対する慰謝料としては、二二〇〇万円をもつて相当と認める。

二  争点2(本件示談につき錯誤無効の主張の可否)について

1  本件示談に至る経緯、締結の状況等について

証拠(甲一、三、五ないし一二、原告大滝景子、取下前の被告根立廣幸、弁論の全趣旨)によれば、次の事実が認められる。

(一) 原告らは、本件事故直後、被告が自賠責保険に加入していないことが判明したことから、平成元年一一、一二月ころ、交通事故損害保険の専門家である日動火災海上保険株式会社の社員大橋某に相談して関係書類を作成してもらい、政府補償の請求手続を行つた。なお、原告らは、そのころ、被告から示談への助力を依頼された損害保険代理店業を営む根立廣幸からも、被告が自賠責保険に加入していないが、国から二五〇〇万円の支払を受けられるのではないかとの説明を受けていた。

(二) 原告らは、原告らの弁護士を代理人として、被告側との間で、本件事故の示談交渉を進め、当初は賠償希望額として九二〇〇万円ないし一億円を提示していたが、右賠償要求額の検討をするに際し、前記のとおり被告が自賠責保険に加入していないことや原告らがすでに政府補償の請求手続を履践中であつたことから、被告側において調達可能な金員のなかに、政府補償による二五〇〇万円の損害填補を加えていた。

(三) 一方、被告は、本件事故に関する自己の刑事事件の弁護人でもあつた被告の弁護士を代理人として、本件事故の示談交渉に臨んできたものであるが、本件事故当時における被告の資力ないし弁済の原資としては、毎月の給料一三万円を除けば、銀行預金一〇〇〇万円と自宅の土地建物のほかには特に目ぼしい資産はなく、しかも右自宅を担保に供しても銀行等からは一〇〇〇万円程度の融資しか受けられず、したがつて、本件事故の損害賠償額等に照らすと、破産もやむを得ない状況にあつた。

しかしながら、被告自身は、自己の起こした事故の重大性を深く反省し、被害者の遺族のためにできるだけのことをしたいとの気持ちが強かつたことから、更に親戚や友人に借金を依頼するなど奔走した結果、ようやく既払金二五〇万円を含めて合計四三〇〇万円であれば出捐しうる目処ができたものの、それ以上の金額を請求された場合には、もはや示談を諦めるほかないとの結論に達した。

そこで、被告の弁護士は、示談交渉中の平成二年二月二三被の公判期日において、裁判官に対し、原告らから自賠法に基づく政府補償を含んで九二〇〇万円の賠償要求がなされたが、被告からの支払は六八〇〇万円が限界である旨答えた。

(四) その後も原告ら側から被告に対し、前記回答額の上乗せ要求がなされ、更に、原告ら及び被告の各弁護士間において交渉を続けた結果、被告において右回答額に一〇〇万円を上乗せすることを了承したことから、原告ら側としてもこれ以上の増額は困難であると判断し、ようやく当事者間において本件示談内容のとおりの合意が成立し、平成二年四月一二日、右両弁護士立合いの下で示談書を取り交すことになつた。その際、同席した亡勝之の父大滝正治が、念のため、「国の二五〇〇万円はどうなつたんですか」と尋ねたことから、「乙(原告ら)は現在自賠法に基づき政府に対し請求中である」旨の文言が示談書に記載されることになつた。もつとも、原告らや原告らの弁護士をはじめ右関係者一同(なお、被告の債務を連帯保証した渡辺勝重、井島春美及び根立廣幸も含めて。)は、政府補償として二五〇〇万円の損害填補を受けられるものと考えていたため、これが受けられない事態のあることを予想してその対応を協議したような形跡は全くなかつた。

なお、原告らの前記政府補償の請求が平成二年九月一三日付けで却下されたことから、原告らの弁護士は、運輸大臣に対し、同年一〇月二四日付け書面を提出し、右請求却下通知に対して異議を申立てるとともに、すみやかに損害の填補がなされることを求めたほか、被告も、政府保障事業宛に、政府保障事業からの損害填補二五〇〇万円を含んだうえの示談であつたので補償をして欲しい旨の嘆願書を作成した。

2  要素の錯誤の存否について

右認定した事実関係を総合すると、原告らは、政府補償として二五〇〇万円の損害填補を受けることが可能であることを前提として本件示談を成立させたものであるから、当時すでに右の損害填補を受けることが制度的にも不可能であつた以上、その点において原告らに錯誤があつたものといわざるをえず、また、仮にそれが本件示談の合意の動機に関する錯誤に過ぎないとしても、右錯誤は表示されたものであることを認め得るから、この錯誤は本件示談における合意の要素に関するものといえる。したがつて、本件示談は錯誤により無効というべきである。

3  原告らの重過失の存否について

本件示談が、原告らと被告との間でなされたことは当事者間に争いがないところ、前記認定事実によると、その意思表示の内容を決定し本件示談を成立させたのは、原告らから委任を受けた原告らの弁護士であつて、原告らは、右決定された意思表示の内容をそのまま受け入れ、示談書を交わしたに過ぎないのであるから、錯誤に陥るについての重過失の有無を判断するには、原告ら及び原告らの弁護士を一体として検討するのが実態に沿い相当と考えられる。

そこで、原告らの弁護士に重大な過失があつたといえるかを検討するのに、原告らの弁護士は、法律実務家である弁護士であるところ、自賠法七三条が、被害者が健康保険法等の法令に基づいて損害の填補に相当する給付を受けた場合又は被害者が損害賠償の責に任ずる者から損害の賠償を受けた場合には、政府は、右給付相当額又は右損害賠償額の限度において、同法七二条一項の政府補償をしない旨明文で定めていることを考慮すると、本件示談の成立により、原告らが被告から損害の賠償を受けた場合、それが政府補償としてなされる損害填補の有無・数額にいかなる影響を及ぼすものであるかは、特段の事情の存しない限り、原告らの弁護士において当然承知し得べきものということができるから、原告らの弁護士が、これを看過ないし誤解して、本件示談を成立せしめたとすれば、その点において、原告らの弁護士に重大な過失があつたものといわざるを得ないと解するのが相当である。

しかるところ、本件においては、右特段の事情の存在を窺わせるに足る主張立証がないから、原告らの弁護士に重大な過失があつたものと認めざるを得ず、ひいては、原告らに重大な過失があつたものというを妨げないものと解するのが相当である。

4  被告ないし被告の弁護士の悪意の存否について

右のとおり、原告らが右錯誤に陥るにつき重大な過失があつたとしても、被告ないし被告の弁護士が、本件示談の際、原告らが前記錯誤に陥つていることを知つていたならば、表意者である原告らの犠牲の下に、被告を保護する必要に欠けるというべきであるから、民法九五条但書の適用がないものと解すべきところ、前認定のとおり、被告ないし被告の弁護士も、本件示談をするに際し、本件事故につき政府補償として二五〇〇万円の損害填補を受けられると考えていたのであつて、原告らの錯誤につき悪意であつたものとは認められない。

三  争点3(本件示談につき詐欺による取消の可否)について

確かに、前認定の事実によれば、被告の弁護士が、原告らないし原告らの弁護士に対し、政府補償として二五〇〇万円の損害填補を受けられる旨を述べていたことが推認でき、また、前認定のとおり、根立廣幸は、原告らに対し、右同旨の発言をしていたことが認められるところである。しかしながら、そもそも、民法九六条一項にいう詐欺とは、欺罔によつて人を錯誤に陥れることをいい、これには相手を錯誤に陥れようとする点及び錯誤による意思表示をさせようとする点についての故意が必要と解されているところ、被告の弁護士及び根立廣幸が、実際には政府補償として二五〇〇万円の損害填補を受けられないことを知りながら、相手方である原告らないし原告らの弁護士をして、右二五〇〇万円の損害填補を受けられる旨の錯誤に陥れようとする故意を有していたものと認めるべき証拠は全くない。

そうすると、その余の点を判断するまでもなく、詐欺による取消の主張は理由がない。

四  争点4(平成五年分金八〇万円の支払の有無)について

被告は、原告らに対し、平成五年四月二七日ころ、金八〇万円を支払つた(弁論の全趣旨)。

第四結論

以上の事実によれば、原告らは本件示談の無効を主張できないものであるから、原告らの本訴請求は、いずれも理由がない。

(裁判官 鈴木航兒 板垣千里 佐々木宗啓)

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